五十歩百歩だけじゃない?孟子に由来する故事成語6選〜意味と使い方を優しく解説〜

華恋の温故知新は神

孟子って聞くと、まず性善説の人ってイメージが強いかもしれませんね
でも実は、今でも普通に使われてる故事成語の中には、孟子に由来するものが結構あるんですよ

たとえば、「五十歩百歩」なんかは、その代表格なんですよね
少ししか違わないのに、まるですごく大きな差があるみたいに見せたがる、そんな人間臭いところを、孟子はずいぶん昔に見抜いていたわけなんです

しかも孟子の言葉って、ただの昔の中国の難しそうな話では終わらせなくて、今の人間関係や仕事関係、気持ちの持ち方なんかにも、そのままつながるところがあるんですよ
今回は、そんな孟子に由来する故事成語を6つ取り上げて、その意味だけではなくて、元になった話や今の感覚ではどう理解されるのかを見てみようと思います

五十歩百歩〜少しの差なのに大きな違いだと思ってしまう話〜

五十歩百歩という言葉は、今でもかなりよく使いますよね
でもこれは、ただどちらも似たようなものだという、軽い意味合いで生まれた言葉ではありません
もともとは孟子が、梁の恵王に例え話として語ったものでした

戦さで前線から逃げた兵士がいたとします
ある者は五十歩逃げ、別の者は百歩逃げたときに、五十歩しか逃げなかった者が、百歩逃げた者を見て、「あいつは情けない臆病者だ」と笑ったらどう思いますか
これって、どちらも逃げたことには変わりないですよね
もちろん逃げた距離に差はありますが、本質的にはお互いあまり変わっていないはずです
そのことを孟子は見抜いて戒めの言葉として話したんです

これって今でも結構ありますよね
少しだけ自分の方がマシだから、あの人よりはいいんだ、そう思いたくなることって正直あると思います
でも孟子は、そういう小さな差に安心する前に、まず自分の立場をちゃんと見なさいよと言っているように見えますね
こういうことを誰かに言うと、それはただ人を皮肉るだけの言葉ではなくて、ブーメランとして自分にも返ってくる言葉になってしまうんですね

本来は五十歩百歩という言葉は、こう言った小さな差異に気を取られ、本質を見失った人の発言に対して使われる言葉なので、ちょっと耳が痛い感じがしますね
単純に「どっちもどっち」みたいな軽い意味合いで使われるものではない、故事成語なんだと思います

助長〜よかれと思ってやったことが逆効果になる話〜

助長という言葉は、今では「不安を助長する」とか「対立を助長する」みたいに、あまりよくない状況をさらに加速して、悪化させるような意味で使われることが多いですよね
でも、もともとの話はもう少し違う方向に生々しさのある意味合いの言葉なんです
それは、よかれと思って手を出したのに、本来のものをかえって台無しにしてしまうという、ちょっと蛇足にも似た感じの言葉なんですよ

孟子の中に、苗の育ちが気になって仕方がない宋の人の話が出てきます
その人は、今ひとつ苗の伸びが思わしくないと感じていて、早く大きく伸びてきてほしい気持ちを抑えられずに、田んぼの苗を一本ずつ無理やり上に引っ張ってしまったんですね
本人としては伸びるのを助けたつもりだったんでしょう
家に帰って、今日は苗が伸びるのを手伝ってきたんだと得意げに話していたそうです
しばらくして田んぼに苗を見にいくと、その苗は全部しおれてダメになっていたそうです
これが、助長の由来となる話です

手をかけすぎることや口を出しすぎること、急がせすぎることなども、その辺は全部相手のためになっているようで、実は自らで成長することを邪魔してしまうことがあるんですよね
仕事でも子育てでも、人間関係などでも、よかれと思ってやっていたことが逆効果になる話なんて、身の回りでも山ほどあります

助長という言葉は、単純に何かを手伝って強めるという意味だけではなく、無理に伸ばそうとして逆に壊してしまうという怖さまで含んでいる言葉のようです
そう考えると、これもまた孟子らしい、人の焦りや未熟さを的確に表現した言葉だなって思います

自暴自棄〜自分を投げ出してしまう気持ちの怖さの話〜

自暴自棄という言葉は、やけを起こしてしまうとか、もうどうでもいいやと投げやりになる感じで使われることが多いですよね
でも、もともとの孟子の言葉は、ただ感情的に荒れることだけをさしていたわけではなくて、自分で自分を粗末に扱ってしまうことへの強い警告が込められていたんです

この言葉は、中国古典の『孟子』離婁(りろう)篇に出てきます
離婁というのは、百歩離れたところからでも物がよく見えたとされる伝説的な人物の名前なんだそうです
ただ、ここで離婁自身に何かの出来事があったことが問題にされているわけではありません
その名前が篇のタイトルになっているだけで、ここでは孟子の言葉が語られているんですね
だから、話の中心にあるのは離婁ではなくて、あくまで孟子の考えの方なんです

その中で孟子は、自分を捨ててしまうような者とは語り合うことは出来ない、自分を見失ったような者とは行動を共に出来ない、そういう趣旨のことを述べています
この話の中で自暴とは、自分を乱暴に扱って礼や道徳心を失ってしまうことだと言っています
自棄とは、自分を見限って、正しい道を歩もうとする気持ちまで手放してしまうことだそうです

つまり自暴自棄って、ただ気分が沈み込んでしまうとか、やけを起こすというだけの話ではないんですね
自分の中にある大事なものを、自分の手で投げ出してしまうことなんです
人は本来、善に向かう力があるのに、それを自分で壊してしまうのは本当にもったいない
性善説を唱えた孟子だからこそ、そういう目線でこの言葉を使っていたんじゃないかと思います

これって、結構身近な話みたいですよね
どうせ自分なんて無理だとか、もう今さら頑張っても仕方ないとか、そういう気持ちになることは誰にでもありそうです
でも孟子が意図した意味合いで考えると、自暴自棄は単なる弱気になって全てを放棄した人を指したものではなくて、自分の可能性を自分で切り捨てることの危険性を教えるための言葉のように見えてきますね

だからこの言葉は、やけを起こした人を嘲笑うためのものではなくて、自分を見捨てないことの大切さを説いた言葉として考えたほうが、本来の意味に近いのかもしれませんね

浩然の気〜まっすぐで大きな気持ちをどう保つかの話〜

浩然の気という言葉は、日常会話でそこまで頻繁に使うものではないかもしれません
でも、孟子の中ではかなり大事な言葉で、ただの気分や勢いの話ではなくて、人の心の中にある、まっすぐで大きな気力のようなものを指しています

この言葉は『孟子』に出てくるもので、孟浩然という別の人物からきた言葉ではありません
名前が似ているので、つい関係があるのかなって思ってしまいそうですが、孟浩然は孟子よりももっと後の時代の唐の詩人です
たまたま同じ名前になっていますが、浩然の気という言葉は、孟子自身が語った考えによるものなんですね

孟子の弟子の中の一人に公孫丑(こうそんちゅう)という人がいました
この人はのちに、孟子の教えを伝える大事な人物の一人です
この公孫丑が、あるとき孟子にこう尋ねたそうです
先生は何が得意なんですか
すると孟子は、次の二点だと答えたそうです
言葉の本当の意味を見抜くこと、そして自分の浩然の気を養うこと
つまりこの言葉は、孟子が日頃から自分の修養の中心としてかなり大切にしていた言葉のようですね

孟子はこの浩然の気を、とても大きくて強く、まっすぐに養っていけば天地の間にも満ち溢れるような気のことだと説明しています
ただし、それは生まれつき誰にでも勝手に備わっているものではなくて、正しい行いを少しずつ積み重ねていく中で、育っていくものだと考えていました
だから、ただ気合を入れればいいとか、勢いで押し切ればなんとかなるみたいな話ではなさそうですね

孟子が理想としていたことは、見せかけだけ立派そうに見えてもダメだということで、正しいことを無理なく少しずつ積み重ねていかなければならない
その先に、外から多少揺さぶられたくらいでは崩れない芯ができていく
浩然の気というものは、そういう人の内面の強さを表した言葉なんです

こうして見ると、浩然の気という聞き慣れない言葉も、今の感覚からそうかけ離れているものではなさそうです
人を本当に支えてくれるものは、一時の勢いや見栄ではなくて、自分にとって恥ずかしくないような行いの積み重ねなのかもしれませんね

匹夫の勇〜本当の勇気と、ただの血気盛んさの違いの話〜

匹夫の勇という言葉は、なんとなく勇ましい感じにも聞こえますけど、孟子の中ではむしろ少し批判的な意味で使われています
ここでいう匹夫というのは、特別な立場にある人ではない、一人の男とか一個人みたいな意味ですね
つまり匹夫の勇とは、広い視野もなく、ただ目の前の相手に怒って向かっていくような、小さな勇ましさのことなんです

この言葉は『孟子』の梁恵王下に出てきます
王が自分は勇を好むのだと語ったのに対して、孟子は、それは小さな勇気にすぎないかもしれませんよ、とたしなめました
そして、剣をなでて相手をにらみつけ、「あいつが自分にかなうものか」と息巻くようなものは、ただ一人を相手にするだけの匹夫の勇だ、と言ったんです
つまり孟子は、勢いよく怒りをぶつけることと、本当に大事なものを守る勇気とは違うと考えていたわけです
王に意見するのは大変なことだったと思いますが、かなり孟子は本気だったんでしょうね

孟子が大事だと考えたのは、個人的なものではなくて、もっと大きな立場での勇気でした
自分の怒りをぶつけることではなく、人々の暮らしや国のあり方まで考えて、何を守るべきかを見失わないことが重要だと考えたんですね
そういう勇気を持つことの方が、よほど重要で難しいものだったんだと思います

今でも、声が大きいとか、強く言い返すとか、すぐに対立姿勢を取るような人の態度を、勇気ある行動だなんて思ってしまう場面はありますよね
でも孟子の考え方で見ると、それは勇気というより、感情の勢いに押されているだけで全体を見ている行動ではないように思います
匹夫の勇という言葉は、本当の強さって何だろうと、一度立ち止まって考えさせる言葉なんですね

反求諸己〜答えをまず自分の中に探してみる話〜

反求諸己(はんきゅうしょき)という言葉は、あまり日常会話で頻繁に聞くようなものではないかもしれません
でも、その意味を知ると案外今の感覚に近くて使いたくなるかもしれませんよ
何か事が起きたときに、その原因や答えをまず自分の中に探してみる
そんな考え方を表しています
漢文っぽく読むと、「かえりてこれを、おのれにもとむ」
こんな感じの言葉ですからね

この言葉は『孟子』離婁上に出てきます
その話の中で、相手が思うように応じてくれないときや、自分の働きかけがうまく届かないときに、すぐに相手のせいにするのではなくて、まず自分の側に何か足りないものが無かったのかを振り返らないといけない、そういう文脈で語られています
つまり孟子は、何か問題が起きたときに、外側ばかり見て責め立てるより、まず自分を省みる態度の方が重要だと考えていたんですね

もちろん、何でもかんでも自分の方が悪いと思い込むべきだと言っているわけではないと思います
ただ人ってどうしても、うまくいかない理由を自分以外の外に探したくなるところがありますよね
あの人が悪いとか、環境がダメなんだとか、タイミングが悪かっただけだ、なんてね
そういう見方が全て間違っているわけではないにしても、外に向いたままで思考が止まってしまうと、自分の側で変えられるものまで見えなくなってしまいそうですよね

反求諸己という言葉は、そういうときに一度立ち止まって、じゃあ、あのときに自分に出来ることは、本当は何だったんだろうかと、考え直させる言葉なんだと思います
それは反省というより、むしろ過ていたかもしれない自分を、立て直すための見方に近いのかもしれません
孟子らしいと思えるのは、ただ自分を責めるだけの方向へは行かず、自分の中に答えを探すことで、もう一度ちゃんと前進し直すところですね

人間関係や仕事上でも、相手ばかり見て責任を押し付けていると、気持ちがどんどん荒れていってしまうのは、今の時代でも同じです
自分の中を少し見直すことで、意外と次に取るべき行動や考えが見えてくることもありそうですね
反求諸己という言葉は、そういう意味で静的な感じもしますが、かなり強い意味を持つ言葉ではないかって思います

まとめ〜孟子の言葉は、今の人間関係や生き方にも意外と近い話〜

孟子というと、性善説を説いた少し難しそうな思想家っていう印象が強いかもしれません
でもこうして故事成語から見てみると、意外なくらい人間の弱さや迷い、焦りなんかをよく見ていた人なんだなって思えてきますね

五十歩百歩には、人と比べて少しだけマシだと安心してしまう感覚がありました
助長には、よかれと思って手を出しすぎる危うさがありました
自暴自棄には、自分を見捨ててしまうことの怖さがあり、浩然の気には、見せかけではない内面の強さが語られていました
さらに匹夫の勇では、本当の勇気とは何かを問い直し、反求諸己では、うまくいかないときにまず自分を振り返ることの大切さが示されていました

こうして見ると、孟子の言葉って、昔の中国の思想として片づけてしまうにはちょっと惜しい気がします
人と比べてしまうことも、焦って失敗することも、投げやりになることも、強がってしまうことも、今のわたしたちにも普通にあることですからね
だからこそ孟子の故事成語は、ただ古い言葉として残っているのではなくて、今でもわりとそのまま読める思想なんだと思います

難しい思想を正面から読むのは少し大変でも、こういう言葉から入ってみると、孟子という人が急に遠い存在ではなくなってきます
昔の言葉なのに、妙に今のわたしたちにも刺さってしまう
そこが、孟子の故事成語の面白いところなのかもしれませんね

コメント

タイトルとURLをコピーしました