ルサンチマンという言葉は、ニーチェの本を読むとよく出てきます
けれども、どうもわたしにはこの言葉の意味が今ひとつ理解できませんでした
一般的には、嫉妬とか妬みとか、ひがみに近いものだって説明されることが多いんです
そう言われると、何かわかったような気にもなるんですが、どうも後味が悪くすっきりしない感じになっていたんですね
ただの嫉妬なら、もっと簡単に分かるはずだし、わざわざ哲学的に重要な概念として語られるほどのものなのかが、正直よくわからなかったんです
しかも、ニーチェが本の中でルサンチマンについて説明してるところを読んでいくと、途中からどんどん話が大きくなっていく感じがします
はじめは負け惜しみのように見える感情の話をしていたはずなのに、価値の転倒とか超人とか、そんな単語が出てき始めて、わたしの方が転倒しかけましたよ
こういった話の流れが、わたしにはものすごく遠くのもののように感じられたんですね
もちろんニーチェは、何かすごく大切なものを見つめていたんだろうなっていう気持ちはあります
わたしたちは確かに、悔しさとか無力感を持ってしまったときに、それを認めるより、別のものに言い換えたくなることは多々あります
ただ、それをルサンチマンという言葉でどう表現して捉えられるのか、なぜそこまで大きな思想になっていくのかが、まだうまく掴めていません
今回は、このルサンチマンについて一般的にはどのように説明されているのかを整理しながら、なぜわたしがこの考えに引っかかったのかを、そのまま言葉にしてみようと思います
完全に納得するためというより、わたしがどこで躓いたのかを自分なりにはっきりさせてみたいんですよね
ルサンチマンは一般的にはどう説明されているのか
ルサンチマンとは、ニーチェの思想を読むとよく出てくる概念の名前です
フランス語のressentiment(恨み)に由来していて、特に1887年に公刊された「道徳の系譜」の中では、道徳や価値観の成り立ちを考える上で外せないものとして、かなり重要な位置付けがされています
そういう大事な言葉だと聞いても、わたしには何か腑に落ちない感覚がずっとありました
このルサンチマンという言葉は、よくある説明では嫉妬とか妬み、ひがみのようなものとして説明されています
自分では手に入らないようなものを持っている相手に対して、羨ましいとか悔しいとか、つい考えてしまいがちです
そういった気持ちが素直な憧れや自らの努力に向かわずに、どこかねじれた感情になって相手への反発や否定になってしまうんですね
例えば、成功している人や目立っている人を見ると、本当は少し羨ましい気持ちがあるのに、ああいうものは本当は中身がないとか、あんなふうになりたいとは思わないとか言いたくなることがあります
普通は、こうした感情の流れがルサンチマンに近い状態だと説明されることが多いようです
つまり、羨ましいとか、悔しくて認めたくないなんて感情が湧き出て、相手のことを下げたくなるんですね
こんな少し後ろ向きな感情の動きとして、まずは理解されているわけです
でもなんとなく、日常的で特に珍しい感じでもない話に聞こえます
わたしの疑問点としては、なんでニーチェはわざわざそういう普通の感情のことを哲学的に大きく取り上げたのかなってことです
でも、わたしにはその説明では足りなかった
一般的な説明を聞くと、ルサンチマンは嫉妬や妬み、ひがみのようなものなんだなってわかったんだけど、ちょっと違うような気もして、わたしにはそれだけじゃ説明が足りない気がしてました
ただの嫉妬なら、そこまで難しく考えなくてもいいんじゃないかって思うんです、珍しいことじゃないですからね
羨ましいものは羨ましいし、悔しいものは悔しい、ルサンチマンの話がそこで終わりになるのなら、わざわざニーチェが自分の思想の中で大々的に取り上げるのも妙な感じがするんです
分かったつもりでいても、やっぱりモヤモヤとした疑問が残ってしまいます
ルサンチマンの説明に後味の悪さを感じるなって思ってたら、どうもその説明には続きがあるようですよ
確かに、ただ悔しいとかひがんでいるとかだけじゃなくて、何かもっと捻れた感じがするんですね
相手を羨ましく思ってるはずなのに、その相手の持っているもの自体には価値がないと言い切ってくる
こういう話になってくると、単純な嫉妬みたいなものとは違ってくる気がします
つまり、嫉妬やひがみなんだという一般的な説明は、ルサンチマン理解の入口にはなるけど、それだけで理解するのは不完全だったっていうわけなんです
その捻れた感じのことを、重要なものとして語られる理由がわたしには見えて無かったということだと思います

ニーチェは何が言いたかったのか
ここまで考えてくると、ニーチェが言いたかったことも、少しだけわかってきたような気がします
たぶんニーチェは、ただ人が嫉妬するということが言いたかったのではないんですね
人は自分の悔しさや無力感を、なかなかそのままでは認められなくて、その気持ちをどう扱うのかを言っているんだと思います
本当は羨ましい、でもそれを認めるのは辛い
そうなると今度は、その相手が持っているもの自体に対して価値がないと思いたくなります
あるいは、それを欲しがらない自分の方がまだマシじゃないかって考えたくなるかもしれません
ニーチェはそういうちょっとした心のねじれを問題にしていたんじゃないかって思います
人は確かに悔しさを悔しさのまま抱え込むよりも、別の形のものに言い換えた方が気持ちが少し楽になることもあると思うんですね、転嫁してしまうんですね
ただニーチェの話はまだ終わりません
この捻れた感情が、ただの負け惜しみではなくて、人間の価値の見方そのものにまで関わる方向に進んでいくという理論の話にまで進んでいくんですよ
たぶんわたしが本当に引っかかって理解できなくなったのは、これから先の話が原因だと思います
なぜ「正しさ」の話になるのかがよく分からなかった
悔しさや無力感をそのまま認めたくないから、その結果として相手のことを下げたくなる
良い考えとは思えませんが、わたしもこういうことを思うことがあるから、この辺りはよく分かります
どんな人でもこういった少しネガティブな感情の動きってあるんじゃないかって思います
ただ、ニーチェの説明はまだ先に続いていきますよ
単なる負け惜しみやひがみの話ではなくて、どちらが正しいのかなって話になっていきます
ちょっと、これは何を言ってるのか、ちょっと飛躍しすぎた考えじゃないかなってわたしは思ったんですよ
普通に考えれば、悔しさとかひがみに苛まれて相手を悪く言ったり考えたりすることは、正しいとは言えないんじゃないかって思います
負け惜しみは負け惜しみであって、とても立派な考えとは思えません
それなのに、ニーチェの話では、その感情がその価値の見方そのものに関わってくるって言うんですね
わたしの感覚とは結構ずれてきたような気がします
たぶんニーチェは道徳的な正しさの話をしているんじゃなくて、傷ついた自分の気持ちを隠すために、自分の方が相手よりマシなんだっていう、弱い人間の心の動きを見てたんだろうって思います
ただ、それを正しさとか善悪の話として展開していくニーチェの理論がうまく飲み込めません
どうしても、それって負け惜しみの屁理屈のように思えてしまうんですよね
それでも、ただの負け惜しみではないらしい
じっくり考えてみても、わたしにはルサンチマンがただの負け惜しみの理屈のように感じてしまうんですね
けれども、こういう感情をすべて単なるひがみだと片付けてしまうと、ニーチェが見ていたものまで見えなくなるのかもしれません
まだ少し抵抗感はあるんですが、なぜニーチェがそこにこだわり続けたのかは気になりました
結局、超人というものが登場してきて話はまとまってしまうようなので、もう少し考えてみたいと思います
なぜニーチェは超人の話へ進んだのか
わたしがいちばん戸惑ったのは、ここから先のニーチェの思想でした
ルサンチマンの話までは、まだ人間の感情としてわかる部分があります
悔しいとか、羨ましいとか、それをそのまま認めたくないとか、日常の中にもそういうことはあるんじゃないかなって思います
ところがニーチェは、そこから超人という話へ進んでいきます
そこがわたしには少し唐突に感じられたし、そもそも超人という言葉の意味も、すぐには掴みにくいものでしたよ
ただ、自分なりに少し整理してみると、ニーチェが言いたかったことも、ぼんやり見えてくる気がします
たぶん彼は、必要以上に他人を見上げたり、反対に下げたりしながら生きるのではなく、自分はどう生きたいのかを自分で考える人間の姿を、はっきりさせたかったのではないでしょうか
相手への悔しさから、自分のほうが本当は正しいとか言い出すのではなく、他人との比較に縛られず、自分なりの生き方をしっかり持つことが大事だと考えたんじゃないでしょうか
ニーチェは、そうした人としてのあり方を超人と呼んだのだと思います
こう考えていくと、理屈としては少しわかる気もします
けれども、現代の感覚からすると、やはり話が少し飛躍しているようにも感じます
悔しさや無力感に悩んでいる人に向かって、そこから超人になれと言われても、それはあまりにも縁遠い話に聞こえるからです
ニーチェが目指していた人としてのあり方は、なんとなくわかってきました
ただ、その考え方にそのまま素直についていけるかというと、まだちょっと不安はありますけどね

ここまで考えてきて見えてきたこと
ここまで考えてくると、ニーチェが言いたかったことも、少しずつ見えてくる気がします
たぶん彼は、ただ人の嫉妬やひがみを責めたかったわけではないのでしょうそうではなく、人が他人への悔しさを抱えたまま、その相手を下げることで自分を保とうとする生き方から、なんとか離れようとしていたのだと思います
相手を悪く言うことで気持ちを保つのではなく、自分はどう生きたいのかを自分で考える
人との比較の中で、自分のほうがまだましだと言い続けるのではなく、自分なりに大事なものを持って生きていく
ニーチェが超人という言葉で言いたかったことも、わたしには今はそのくらいの意味として見えてきています
もちろん、その言い方はやはり極端ですし、現代の感覚では少し遠く感じるところもあります
けれども、ここまで整理してくると、ニーチェが目指していた方向そのものは、前よりも少しわかるようになってきました
人を下げて自分を保つのではなく、自分の生き方そのものを立て直そうとすること
たぶん彼が本当に言いたかったのは、そこだったのだと思います
まとめ
ルサンチマンという言葉は、最初のわたしにはとても分かりにくいものでした
一般的には嫉妬や妬み、ひがみに近いものとして説明されることが多いですけど、それだけではどうしても足りないような気がしていたんですね
けれども、ここまで考えてくると、ニーチェが言いたかったことも少しずつ見えてきた気がします
たぶん彼は、ただ人の弱さを責めたかったわけではなくて、他人を下げることで自分を保とうとする生き方から離れ、自分はどう生きるのかを自分で考える方向へと進もうとしていたんでしょう
もちろん、その言い方や超人という考え方は、今の感覚では分かりにくいところもあります
それでも、最初にはただ分かりにくかったこの言葉が、考えてみる価値のあるものとして見えてきたことは、今回の大きな収穫だったような気がします


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