今日の音楽余話は少し時代をさかのぼります
レコード棚を眺めているとふと聴きたくなる音があります
それはチェンバロという楽器の音です
ピアノの祖先とも言われるこの楽器は、英語ではハープシコードと呼ばれます
鍵盤楽器ではありますがピアノとは音の出し方がまったく違います
ピアノはハンマーが弦を叩いて音を出しますが、チェンバロは弦を小さな爪で弾いて音を出します
そのため音は鋭くどこかガラスのようなきらめきを持っています
強く鍵盤を押しても弱く押しても、音量がほとんど変わらないという特徴があり、演奏は音の強弱ではなく装飾やリズムの流れで表現されます
チェンバロが最も活躍したのは、およそ16世紀から18世紀のヨーロッパ
いわゆるバロック音楽の時代です
バッハ、ヘンデル、スカルラッティなどが好んでいたようです
彼らの作品の多くは、この楽器を前提に書かれていました
宮廷やサロンの空間の中でも、チェンバロは音楽の中心にありました
しかし18世紀の終わり頃新しい鍵盤楽器が登場します
ピアノです
ピアノは音の強弱を自由に表現でき、より大きなホールで鳴らすことができましたベートーヴェンやショパンの時代になると、音楽の主役は完全にピアノへ移っていき、チェンバロは長いあいだ歴史の影に隠れてしまいます

その楽器を20世紀に再び舞台へ戻した人物がいます
ポーランド生まれのチェンバロ奏者、ワンダ・ランドフスカです
1879年生まれの彼女は、忘れられていたバロック音楽に魅せられ
チェンバロの復興に人生を捧げました
当時はこの楽器自体がほとんど残っておらず、彼女は楽器製作者と協力して
新しいチェンバロを作り、世界中で演奏活動を行いました
バッハのチェンバロ作品を録音しコンサートで紹介し、この楽器の存在を再び音楽の世界に戻したのです
その活動がきっかけとなり、古楽演奏という考え方が広まりチェンバロは再び音楽史の中で息を吹き返します
きらめくような音で少し乾いた響き、そしてどこか静かな気配
チェンバロの音には現代の楽器にはない時間の空気があります
ピアノが感情を語る楽器だとすれば、チェンバロは時間を語る楽器なのかもしれません
大きな声で主張する音ではありませんが、それでもその静かな響きは何百年も前の空気を、そっと今の夜に連れてきてくれるのです


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